柑橘類に関しては、前世の二十一世紀でも圧搾法で抽出するとKちゃんが言っていたな。
Kちゃんはアロマにも詳しくて、彼女の部屋にはたくさんのアロマオイルや精油が置いてあった。 中には興奮作用のあるアロマなどもあり、「プチ媚薬で攻め様が受けちゃんに使うのー! で、いつも以上にめろめろになった受けちゃんと思う存分イチャイチャするの!」と楽しそうにおしゃべりしたっけ。ああ、懐かしい。さて、今回抽出する植物はゼラニウムである。
ゼラニウムはピンク色のかわいいお花。 ちょうど今の時期――冬のはじめ頃――が開花季節で、見た目の可愛らしさからあちこちで植えられている。 この要塞町でもありふれたお花として、よく見かけた。軍団駐屯地にも咲いていたので、庭を管理している人に許可を取ってもらってきたのだ。ゼラニウムの効能は抗菌作用、抗炎症作用。虫よけにもなる。
ガラス工房主さんのやけど傷に、応急処置として抗炎症作用のあるゼラニウムが役立つはずだ。 傷以外にも皮膚によい植物なので、いいハンドクリームになってくれるだろう。余った分があれば、石けんに混ぜてもいいね。フラスコの炎はそれなりに長い時間出続けている。
フラスコの中の水はいい感じに沸騰して、ゼラニウムの花びらを揺らしていた。立ち上る蒸気は順調にパイプに吸い込まれて、冷却器で冷やされ、ビーカーにぽたぽたと滴っている。 それにしても、魔法をこんなに長い間使い続けて大丈夫なのだろうか。「クィンタさん。魔力は大丈夫ですか?」
「平気、平気。俺は一流の魔法使いだからな。そこらの雑魚とは格が違うんだよ。属性も火と水、金のトリプルだ」
へらりと笑う彼は、特に負担がかかっているようには見えない。
自分で言うのがうさんくさいが、本当に腕の良い魔法使いであるらしい。 複数の属性持ち、しかも三つはかなり珍しい。「フェリシアちゃんは光の魔力だろ? あれ以降、調子はどうだ?」
「さっぱりです。クィンタさんを治せたのもまぐれじゃないかと思うくらいで」
「まぐれなわけないぜ。よし、いい機会
物語のヒットと商売の配当金でリッチになった私だったが、メイドの仕事は続けている。 本当のところを言えば、そろそろ専業作家として執筆に専念してもいい気はする。 お金の面は問題なくて、周囲の人たちも応援してくれているし。 でも私は、仕事をしながらメイド仲間と萌え語りして、軍団兵たちから萌えをもらって、みんなで一緒に暮らす今の暮らしがとても気に入っているのだ。 実家にいるときは、たった一人で虐げられてばかりだった。脳内妄想がなければ耐えられなかったと思う。それに比べればここはパラダイスだよ。 物語の執筆は、元々寝る前の時間を工面して行っていた。 今だってそれをやればいい。 そう伝えると、リリアは心配そうにしていた。「でも、フェリシア先輩。メイドの仕事は忙しいのに、寝る時間を削って続けるなんて。体が心配です」「そうよ。いくら若くても無理は禁物よ」 メイド長まで口を出してきた。 私は「平気です」と言いかけて、ふと思い出した。 前世の死因が同人誌の原稿のためにエナドリがぶ飲みの無茶な生活をしていたせいだと。 とはいえこの世界にエナジードリンクはないし、当時の年齢よりも今のフェリシアのほうがずっと若い。多少の無茶は大丈夫なはずだ。 そこまで考えて、もう一つ思い出した。この体は本来小さいフェリシアのものであって、私が勝手に粗末に扱っていいものじゃない。 できるだけ大切にすると決めたばかりなのに、私のバカめ。「どうしたらいいでしょう……」 私がしゅんとすると、リリアとメイド長は「やっと分かったか」という表情になった。「あたしたちはみんな、あんたの物語を応援しているのよ。石けんで水仕事が楽になって、ハンドクリームで手荒れだって治った。何を遠慮しているんだか」「そうですよ。だから仕事は気にしないで。物語に専念してください」「けど、それではどうしても落ち着かないの」 私の言葉に、二人は呆れた様子である。「頑固ねえ。じゃあ、あんたの仕事を少し減らして休日
ペンネームは何がいいだろう。 ちなみに前世のペンネームは『かに』だった。当時の最推しの星座が蟹座だったからだ。 今現在の状況で『かに』はないな。意味不明すぎる。 というか、異世界なので十二星座は存在しない。あるのは違った星座で、蟹座も夜空にないのである。さびしい。 なお英雄叙事詩の一番のお気に入りキャラは、王子の兄である王太子。渋くてかっこいい大人の男なのよ! それはともかく、あれこれ考えた末に私は言った。「フェリクス、でお願いいたします」 フェリクスとは『幸運』を意味する。 フェリシアの名前自体がフェリクスの女性形である。 フェリシアという名前は本当のお母さんがつけてくれた。私の今の名前であり、同時に小さいフェリシアの名でもある。 皇太子や家族にバレるのは嫌だけれど、フェリシアの名前自体は大事にしたい。 だから、フェリクス。「分かりました。では、作者は『フェリクス』にしましょう。性別不明でミステリアスな雰囲気になりますね」 本屋はうなずいてくれた。「斬新で大人気の物語の作者が、正体不明の謎めいた人物。覆面作家とでも言いましょうか。ますます人気が出ますよ!」「ふふっ。これはしっかりと続編を書かないといけませんね」 私の物語を待ってくれている人が大勢いるなんて、作者冥利に尽きる。『フェリシア。ありがとね』 私の心の奥で、小さいフェリシアの声がする。『今回はつい、出しゃばっちゃったけど。これからもあなたの心の片隅で、萌えをもらいながら見守っているから』『いつでも出しゃばっていいよ。あなたあっての私だもん』 私が返事をすると、小さいフェリシアが笑った気配がした。「それではフェリシアさん。僕は帝都に戻ります」 本屋の声で我に返る。「ええ。道中のご無事をお祈りします」 遠ざかる本屋の背中を見送って、私は改めてペンを握る手に力を込めたのだった。
本屋と一緒に軍団長の執務室を出る。 本屋は興奮した様子で話しかけてきた。「やりましたね、フェリシアさん。これで僕の本屋はぐっと大きくなります。もう背負子を背負って町から町に移動せず、帝都に店を構えて売り込めるようになりますよ!」「良かったですわ」 にっこり微笑み返すと、本屋は少し息を呑んでから言った。「これも全てフェリシアさんのおかげです。僕、本当はこの物語が売れるかどうかは半信半疑でした。フェリシアさんとリリアさんの熱気に当てられたのを、後悔した時期もあります。でも……」 彼は語る。 おっかなびっくり物語を持ち込んだ先は、ある貴族女性の文学サロン。小さな本屋が出入りするくらいだから、貴族としてそう格は高くない。 その女性に物語を売り込んだ。 フェリシアとリリアと相談した通り、男性同士の絆と情念を要点にして、有名な英雄叙事詩を再構築したものと謳って。 帝都では英雄叙事詩は男性人気が高く、女性は悲恋などのラブロマンスを好む傾向にあった。 だから最初はサロンの女性も難色を示したそうな。私に戦記物は分からないわよ、と。 けれど戦いのシーンはあくまで二の次で、男性同士の人間ドラマを主軸にした物語だと粘り強くアピールしたところ、手にとってもらえた。 手にとってもらってからは早かった。 サロンの女性はあっという間に物語の虜になり、今では日々「王子が、王妃(美少年)が、知将が~」と語っているのだとか。 その人が熱心に布教してくれたおかげで、ネズミ算式にBLの虜になる人が増えた。 今では帝都の文学を嗜む女性の多くがこの物語を愛好している。 一部では男性すら魅了している! なんと、このユピテル帝国でも腐男子が誕生した。 となると先ほど、恥ずかしがらずに軍団長に紹介してやればよかったかもしれない。もったいないことをした。 まあいずれ試してみよう。「これでフェリシアさんの名が、作家として帝都に……いえ、帝国中に轟くことになるでしょう。でも、フェリシアさんは僕と優先契約を結んでいますからね。よろしく
「軍団長は、それだけフェリシアを買っている。無論、私たちもだ」 ベネディクトがまっすぐに私を見た。「遠慮はしなくていいぞ。どうせ軍団長にも儲けが入るんだ。ちゃっかりしてるぜ、あの人」 クィンタはちょっとわざとらしく手を広げている。「だから、母上の形見は手放さなくていい。相応の額を初期費用として支払う算段だ。もし足りなければ、私も出す」「あーあ、これだから名門貴族のお坊ちゃまは。俺は給料以上の金は持っていないんだ。残念だがそこは役に立てねえ」 ううーん。 形見を質入れしないで済むのは嬉しい。でも本当にいいのだろうか。 悩む私を、リリアが励ましてくれた。「フェリシア先輩。わたしには難しい話はよく分かりませんけど、お金がもらえるならもらっておきましょうよ! それで物語の写本をいっぱい作って、もっと人気を出すんです!」「……そうね!」 話が上手く進みすぎだけど、軍団長もベネクィの二人も信用できる人だと思う。 それに何より、私を厚遇して騙す理由が見当たらない。 聖女の力が本物だと思い込んで、囲い込むつもりかもしれないけど。 皇太子や実家の家族に比べるまでもなく、この人たちはとても良くしてくれた。 曖昧なままの聖女の力くらい利用してくれていい。 だいたい、聖女の力の本領は魔物を弱体化して浄化するというもの。それから傷を癒やす力。 であれば、常に魔物との戦いを続けている要塞の兵士たちにこそ必要な力ではないか。 大いに利用してくれて結構だ。 むしろ私がもっと頑張って、光の魔力を使いこなせるようにしないと。 そうと決まれば迷いは消えた。 帝都では私のBL物語を待っている人がいる。急いで写本を作って、たっぷりと萌えを届けなければ!「それでは、恐縮ですがよろしくお願いいたします。ご迷惑ばかりかけてしまって、本当にすみません」「迷惑など何もない。顔を上げてくれ」「そうだぜ、フェリシアちゃん。後で軍団長から正式に話が行く
『フェリシア~~~。やってくれたわね』 本屋が帰った後、メイド部屋にて。 私は軽く目を閉じて、小さいフェリシアを問い詰めた。『私のこと、操ったでしょう。形見を質入れするつもりなんてないのに!』『ふふっ。だってフェリシアは言ってたじゃない。『いつだって体を交代するよ』って』『うっ。そりゃあ言ったけど、そういうことじゃなくてね……』『無駄だからね、抵抗しても。明日はしっかり質屋さんに行って、お金をもらってこよう』『ううーっ』 小さいフェリシアは聞く耳を持たず、とても楽しそうにしている。 私の心の中で、くるくる踊っている様子が感じられる。『英雄たちの物語が帝都で人気だなんて、とっても素敵! わたしとあなたのためだもの、お母様も許してくれるよ? むしろ応援してくれると思うなあ』 どうにも説得は無理そうだ。 私はため息をついて、受け入れることにした。『でも、他にお金ができたら、真っ先に質草を取り戻すからね』『別にいいのに。まあ、もしお金に余裕ができたらね』 話がついたので目を開ける。 急に黙り込んだ私を、リリアが心配そうに覗き込んでいた。「フェリシア先輩、大丈夫ですか?」「ええ、何でもないわ。明日はちょっとお出かけするから、外出許可を取らないと」 高価なネックレスを持ち歩くから、誰かに付き添いを頼んだほうがいいかもしれない。 この要塞町は治安はいいが、絶対に平気とは言い切れないので。 いろいろ考えた末に、質屋の付き添いはベネディクトに頼むことにした。 彼は要塞に駐留するゼナファ軍団の副軍団長。周囲ににらみをきかせてもらうには最適だろう。 頼む以上は事情を話さなければならない。 彼の部屋を訪ねていいかと聞いたら、困った顔をされた。「フェリシア。妙齢の女性が男の部屋を訪ね
ねえ、ちょっと聞いてよ奥さん! 帝都で英雄叙事詩BLが大ヒットしたんですって!! ……興奮のあまり口調がおかしくなった。失礼。 先日、数カ月ぶりに本屋が要塞までやって来て、このニュースを伝えてくれたのだ。 私もリリアも、居合わせた他のメイドたちも大興奮。 男性同士の熱くたぎるような、それでいて甘く切ない恋が帝都の御婦人方の心をも捕らえた! こんなに嬉しいことはない。 しかし本屋は良いニュースばかりを持ってきたわけではなかった。「写本の手が足りないのです」「というと?」 ユピテル帝国は古代文明の国。当然、活版印刷技術はない。 だから本を増やすには人の手で写本をしないといけない。 誤字を少なく正確に写本するのは一つの技術。 多くは写本奴隷という技能を磨いた奴隷たちの仕事である。 奴隷というが、技能持ちの奴隷は値段が高い。 目の前の彼、移動本屋のように小さな版元では、自分の奴隷を持つのは不可能なので、大きな版元から人手を借りることとなる。 しかし今回、英雄叙事詩BLは爆発的な大ヒットとなった。 それゆえに大量の写本を求められたが、本屋が雇える奴隷の数は少ない。 需要は山ほどあるのに、供給が足りない! そしてユピテル帝国は著作権の概念が未熟で、人気作は勝手に写本されて出回ってしまう。「このままではせっかくの商機が、他の版元に取られてしまいます」 本屋は悔しそうだった。 けれど私は、帝都でBLが受け入れられるならそれでいいかという気持ちもある。 私の最大の目標は布教そのもので、個人の名声とかお金とかは二の次なのだ。 だって住み込みで働いていれば、衣食住には困ってないし。「フェリシアさんへの報酬も、あまり用意できていません。本当に申し訳ない……」 本屋はそう言いながらも、金貨三枚を渡してくれた。 私の物語を買い取るときにお金をもらったので、これは臨時ボーナス